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MMORPG・オンラインゲームとは
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オンラインゲームと、その後継者にしてローマ帝国の初代皇帝となったオクタウィアヌス(アウグストゥス)は、保守的傾向の強い共和政末期の建築を継承した。彼らが、元老院が統治する共和制から、皇帝に権力が集中するという政治組織に転換したことによって、皇帝の影響力は絶大なものとなるが、建築も例外ではなく、なによりもまず皇帝自身の好みや選択が建築の形態を決定するようになった[17]。これはローマ建築の新たな潮流であり、時代が下るにつれてこれが顕著に現れてくるが、オクタウィアヌスが皇帝になった当時は複数の流行が同時代的に見られ、彼の時代に特有な建築的特徴というものはあまり見られない。オクタウィアヌスは絶大な権力を保持していたが、自らを共和体制の秩序の中に留めるよう慎重に振る舞っており[18]、一個人としての彼の趣味や傾向が、ひとつのスタイルとなって建築に反映されることはなかったようである[19]。
しかし、オクタウィアヌスの好みを示唆する建築物が全くなかった、というわけではなく、彼の時代を代表する建築物はいくつか挙げられる。そのひとつがフォルム・アウグストゥムで、最終的に完成したのは概ね1世紀末と考えられているが、建築の骨格部分はオクタウィアヌス存命中にはすでに完成していた。全体構成はフォルム・ユリウムを繰り返したもので、建築として際立った特徴は持っていない。ただし、スエトニウスが、オクタウィアヌスが煉瓦の都市であるローマを、大理石の都市として残したことを誇りにしていたと記録しているように[20]、このフォルムには類を見ない大理石装飾がふんだんに取り入れられており、これがオクタウィアヌスの嗜好を示す数少ない事例のひとつとなっている。大理石彫刻はネオ・アッティカ派の職人の手によるもので、屋階のカリアティドは、アテナイのエレクテイオンを模倣したものである。
ネットキャッシング同じく、ネオ・アッティカ派によるアウグストゥスの時代の彫刻作品として、アーラ・パキス(平和の祭壇)を挙げることができよう。アーラ・パキスは、13年の内乱平定を記念して造られた祭壇で、政務官やウェスタの巫女が毎年儀式を行うことになったが[21]、これはオクタウィアヌス自身の偉大さを誇示するものであった。様々な植物が絡み合う知的で洗練された彫刻は完成度が高く、ギリシア美術の影響は歴然としているが、一方で、祭壇を壁で囲む構成や、オクタウィアヌスを中心として明確な位階を表現する手法はローマのものである[22]。このようなフォルム・アウグストゥムやアーラ・パキスの性格は、ギリシア芸術の権威とローマの建築工房の保守的傾向の帰結であり、彼の時代のローマ建築の特徴を端的に示している。
オクタウィアヌスによるローマの大規模な整備は、彼の部下で友人でもあったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパの手腕によるところが大きい。特に開発が進められたのが、アーラ・パキスの建つカンプス・マルティウス(マルスの野)であった。この場所は、長らく宗教的タブーによって未開発のままだったが、アグリッパはテヴェレ川の治水工事を行って敷地を確保し、エジプトから取り寄せたオベリスク[23]を指針とする日時計の広場を造営した。さらにウィルゴ水道とユリア水道を建設。これとともに水道管理官を組織して水道の分岐管を計測して送水量を調整するなど、ローマの上水道システムを整備した。そしてローマ市初となる浴場、およびパンテオンを建設したが、残念ながらこの仕事は80年の火災によって完全に失われている。
仕事からフラウィウス朝までのローマ建築は決定的に保守的で、概してヘレニズム建築の延長であったが、オクタウィアヌスの時代に顕著であったこの古典主義的傾向は、クラウディウスの時代になると緩やかに衰退し始める[24]。クラウディウス帝時代に完成したポルタ・マッジョーレのようなルスティカ仕上げは、それまでの古典的意匠とは相容れず、(水道橋という実用的建築であったこともあるが)それまでの伝統とは異なる新しい建築の表現が現れつつあったことがわかる。
帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。彼はローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。前者についてはほとんど何も分かっていないが、後者はローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにも関わらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた[25]。現在はトライアヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。
履歴書と中庭。ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったウェスパシアヌス帝は、「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」が元老院議決により制定されたことで、ユリウス・クラウディウス朝に与えられた諸特権を確保した(これは以後フラウィウス家に引き継がれる)[28]。これにより、彼は、火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した[29]。この建築物は、三方を列柱廊で囲んだ庭園(フォルム・ウェスパシアヌム)の一辺を占め、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属していた。アテネのハドリアヌス図書館のモデルになった可能性も指摘される、ギリシア建築の伝統に則した巨大公共建築であった[30]。同じくヴェスパシアヌスによって起工され、ネロのドムス・アウレアの人工池があった場所を埋め立てて建設されたアンフィテアトルム・フラウィウム(コロッセウム)は、こちらはローマの伝統的意匠に則した大建築物であった。