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リアルとは
現実世界のことをいいます。
外為に徳川家康により行われたという天守の高さ制限によって5重以上の天守は国持ちの有力大名に限られたとされている。それ以降、5重天守をはばかる大名も現れ、それ以降に造られた小倉城(1610年)では4重目屋根を撤去し5階平面を張り出させ5重となることを回避している。元和元年(1615年)徳川幕府による一国一城令により幕府の許可なく新たな築城、城の改修・補修が出来なくなり、天守も同様に許可なく新たに造営することが禁じられた。これ以降も同様に、津山城(1616年)や福山城(1622年)のように4重目の屋根を庇とみなして事実上の5重天守でありながら名目上4重天守とするものや、高松城(1669年)のように内部5階建てでありながら外見を3重とするものなどが造られた。また、伊予国の松山城のように5重の天守を3重に改築するものもあった。また、天守を意識して建てられた大規模な三重櫓も天守という名称をはばかり、御三階櫓などと呼んだ。
江戸期になり平和な時代が訪れると、城は防衛の役目を終え政庁へと変化していったので、天守の役目も終わり、城は次第に御殿や二の丸・三の丸が拡充されていった。
不動産の若松城天守明治維新の後は、城郭や陣屋にあった建物は天守も、民間によって或は、軍事施設・土地としての接収によってほとんどは払い下げ、破却されたが、中には市民運動や公人・軍関係者などの保存の働きかけなどによって保存された天守がある。保存される経緯に、城主がそのまま所有者となったため保存されることになった犬山城天守や、解体工事が大変という理由で残ったといれる姫路城の建造物群のような事例は稀である。そのように保存された天守は、沖縄の首里城正殿を含む21城だけであった。その後、西南戦争などの内乱や太平洋戦争末期には日本本土爆撃や沖縄戦によって首里城を含む8城が焼失、戦後に松前城天守を焼失させて、現在では12城の天守が残るだけとなっている。太平洋戦争などで焼失した旧国宝の天守をコンクリート造りなどによって外観復元する事業が戦後活発に行われ、現在でも各地で、天守はもちろん当時の工法によって城址を旧状に復興・復元しようとする運動がある。
名前の起こりは殿主、殿守から由来するか、仏教思想やキリスト教のゼウスの訛ったもの(天主)などの宗教思想からの命名とも考えられている。 宮上茂隆によると、天守の名称の由来は岐阜城の天主が始まりであり、織田信長が、策彦周良に依頼して麓にあったという四階の御殿に命名したものであるという。
そのように、建てられてきた城の象徴的な多重建物、いわゆる天守をさらに流行させたのは豊臣秀吉である。豊臣秀吉により大坂城・伏見城と相次いで豪華な天守が造営されると、それを手本に各地の大名が自身の城に高層の天守を造営させた。このように、天守は織田信長、豊臣秀吉の織豊政権下に置いて発達した「織豊系城郭」に顕著に見られることから織豊系城郭の特徴のひとつにあげられる[6]。
FXまでの城の外壁は黒漆または柿渋塗りの下見板などの板張りが主であったが、江戸時代になると白漆喰塗籠の外壁も登場した[7]。また、この時代に活躍した天守造営の名手として中井大和守正清・岡野又右衛門などが挙げられる。 豊臣政権が衰退し始めると徳川家康の下、徳川名古屋城を始めに諸大名が姫路城などの豊臣大坂城を超える大規模で装飾的な天守を造営していった。しかし、3代家光の武家諸法度の発布以降は「天守」と付く高層の天守建築は原則として造られなくなる。
型式は望楼型・層塔型の2つに大別されている。ただし、発展の順序において層塔型が先か望楼型が先かは結論が出ていない。 構造上では、望楼型と層塔型に分けられ、外観上、特異なものには、特に規定はないものの、復古・略式・唐造・八棟造などとさらに細かく分けることがある。外観復元や復興された天守など、近代にその天守が建てられた当時の工法ではない工法で造られたものは、旧状または当時の造りに倣って外観を当時の型式にして建てられるが、内部構造は当時の方法で復元、施工されないので構造上の区分では異なったものになることがある。しかし、これらも外観上では、望楼型・層塔型と分類されている。ここでの望楼型と層塔型は、主に構造による分類によって記す。
初期と後期
後期や初期といった区分は、構造上の違いはほとんどなく、年代・発展や、平面規模の逓減率、初重平面が整っていったということにより分けられているものであり、すべてがこういった厳密な分け方をしているとは限らない。またこういった語を用いずに、「古式の望楼型」や「典型的な層塔型」といった表現をする研究者や学者もいる。
明治6年(1873年)に廃城令が公布され、多くの城の建造物が失われた。廃城令以後も残った天守は60余あったが、軍の接収によって城の敷地が駐屯地となったので、破却が進んだ。さらに、第二次大戦時には米軍はこれを軍事施設とみなしたので、空襲を受けて更に多くが失われた。
現在、江戸期以前から存在している天守は、日本国内に12か所ある。そのうち4か所が国宝、うち姫路城は世界遺産であり、残り8か所がいずれも国の重要文化財に指定されている。これらは、現存12天守(十二現存天守)、国宝四城、重文八城(重文八天守)などと呼ばれている( 詳しくは別項「現存天守」を参照 )。
木造復元天守(大洲城天守)明治以降には、城郭自体の廃止に伴って築城における天守などの建築を造ることはなくなったが、天守に似せた建物や、旧城の天守を再建した「天守」は造られている。昭和に入り、主に地域振興の目的で天守が復元または建設され始めた。
特に盛んに建てられ始めたのは第二次大戦後であり、空襲で焼失したものや古写真や絵図に描かれた天守、全くの伝説上の天守などが鉄筋コンクリート工法で建設されているものが多い。それらの多くの天守は遺構の上に造られているため、礎石を移動したり、石垣の積み換えなどを行うので、特に近代工法で建てられた模擬天守や復興天守・外観復元天守などは「歴史遺構の破壊になっているのでは」との意見もあった。平成期にはコンクリート造りなどでの天守の建設は減り、また、文化庁の復元方針の厳格化に伴い掛川城や大洲城などのように木造による、より忠実な復元が増えている。
近現代に造られた天守は、復元天守(復原天守)(木造復元天守・外観復元天守)・復興天守・模擬天守・天守閣風建造物に分けられている。このほかに、復元天守と復興天守を合わせて再建天守ということがある。
外観復元天守(熊本城大小天守)火事・天災・破却・戦災(核兵器によるものを含む)で消失した天守を、少なくとも外観は以前の通りに復元したものをいう。第二次大戦で損失した天守が主である。さらに、木造復元天守と外観復元天守に分けられる。文化庁の示す「復元」とは、木造復元のみを指す[9]。復元された天守の中で現在最も新しいものは、平成16年(2004年)に竣工した大洲城天守である。
建築基準法施行令によって4階以上の木造建築の建設は筋交や金物の使用、コンクリート基礎とする必要があるなどの制約や消防法など、厳密な意味で天守を復元すると、耐震基準や建物の利用に関する安全性を満たすことはできないため、天守を野外復元できるだけの資料が揃っていても、鉄筋コンクリート構造の天守を建てざるをえないことが多く、建設大臣の特別認可を受けたり、白河城の御三階櫓のように法の抜け穴を見つけなければ木造天守の建築は不可能であった。平成に入ると、建築基準法でも大型の木造建築を認める改正がなされ[要出典]、建設省の指導を受けつつ伝統的工法に限りなく近づけた天守の建築が盛んになった。
天守の復元には、建築基準法や消防法などの法令による制約があるが、国史跡での再建行為については文化庁により「考古学的遺産の保存管理に関する国際憲章[10]」に基づいた再建行為が認められており[9]大洲城天守のように建築基準法の適応除外や消防法の特例として認可されるということがある。