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外国為替では各曲輪の面積が狭く設置可能な施設は限られていたが、平城では各曲輪の面積が広く御殿など大規模な施設の設置が可能であった。
城が中世の臨時的な軍事基地から恒久的な統治拠点になると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられることがあった。これを「外郭」または「外曲輪」「惣構」などという。普通、城という場合、内郭だけを指し、外郭は天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。
築城に際しての基本設計を縄張(なわばり)あるいは径始(けいし/経始とも表記される)といい、その中心は曲輪の配置にあった。“縄張”の語源も曲輪の配置を実地で縄を張って検証したことに由来するとされる。近世に入ると、軍学者たちにより、様々な分類・分析がなされた。縄張の基本的な形式としては、曲輪を本丸・二の丸・三の丸と同心円状に配置する「輪郭式縄張」、山や海川を背後におき(後堅固)本丸がその方向に寄っている「梯郭式縄張」、尾根上などに独立した曲輪を連ねる「連郭式縄張」などがあるが、実際にはそれらの複合形を取ることが多い。
外為の内堀、石垣城を構成する基本的な防御施設として、初期の山城では切岸が用いられたが、やがて堀・土塁が多用され、石垣が多くなった。堀は水堀の他、空堀、畝状竪堀などの形態があり、土塁は土居ともいい、堀を掘った土を盛って外壁とするものである。土塁の上部に柵や塀を設けることもあり、斜面には逆茂木(さかもぎ)を置いて敵の侵入を阻むなど、防備は厳重を極めた。石垣は中世においても城郭の要に一部用いられることはあったが、安土桃山時代になると、重い櫓を郭の際に建てる必要から、土塁の表面に石材を積んで強化した石垣が発達した。安土城以降は、土木技術の発達と相まって、大規模な石垣建造物が西日本に数多く建設された。
城の出入口を、虎口(こぐち)という。大抵は曲げられて造られることが多く、城門や虎口の正面に蔀(しとみ)と呼ばれる土塁を設けてまっすぐ進めなくすることもある。城の正面(近世城郭では通常は南)の虎口には大手門(または追手門)、裏の虎口には搦手門が構えられた。虎口は城兵の出入り口であるとともに、敵の侵入口にもなるため特に厳重に防備が固められた。虎口に塁壁で四角形の空間を形成して門を2重に構えたものを桝形虎口・桝形門という。虎口の外側にある堀の対岸に、橋頭堡としてさらに堀で囲まれた小さな曲輪を作ることがあり、これを馬出(うまだし)といった。
FXと対面する虎口の堀には土橋や木製の橋が架けられ、必要に応じて城内と城外、城内と郭外を遮断すべく木橋の板をはずす、若しくは、破壊、特殊な場合は可動式にして移動させられた。移動方法には算盤橋のほか、郭内に引き入れる引橋、虎口の門柱によって橋を釣り上げる跳橋(桔橋とも書く)などがあった。
姫路城の狭間塀は曲輪内を仕切るほか、防御の目的で石垣・土塁の上にも築かれた。中世には土塀・板塀・塗込塀などが、近世には防火のため、漆喰塀・海鼠塀が用いられた。塀や櫓には矢・弾丸などを射出するための小窓が設けられ、これを狭間(さま・はざま)といった。その窓の形により丸狭間・菱形狭間・将棋駒形狭間・鎬狭間・箱狭間などと呼ばれ、塀の下の石垣の最上部に切込みを入れるようにあけられた石狭間もあった。その用途によって矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間などと呼ばれた。
櫓(やぐら)は矢倉とも書き、非常に際し弓矢などで応戦する防衛拠点の建物をいう。門の上に設けるものと塁上に設けるものとがあり、前者の門を櫓門または楼門ともいった。櫓は通常、方位を冠して巽(たつみ)・艮(うしとら)・乾(いぬい)櫓などといい、また用途などによって着見・月見・太鼓櫓などと呼ばれるものもあった。郭の角にある隅櫓は、近世城郭では通常二重櫓、大きな城などでは小規模な三重櫓が用いられることもあったが、中には大坂城本丸にあった三重櫓や熊本城にある五階櫓のように天守に匹敵する構造を持つ櫓もあった。
城郭の最終防衛拠点と位置付けられ、城の象徴でもある天守は、大型の望楼櫓が発展したともいわれる。
名称の由来は、仏教の多聞天、梵天、帝釈天(=天主)を祀ったところから命名されたものという説、城主の館を「殿主」「殿守」といったところから来たという説などがある。しかも、天守の文献上の初見は、摂津伊丹城[4]とするものや松永久秀の大和多聞山城とするもの、また、織田信長の安土城の天主とするものなどの説があり、起源については未だに十分解明されていない。多様な形式・形状の天守が築かれたが、築城のピークは関が原の合戦前後で、特に西日本には姫路城天守のように高さ20メートル前後から30メートル前後のものが築かれたのも特徴である。
概ね、復元された建物内部は郷土博物館や歴史資料館として一般開放されている。
(復元天守・復興天守に関しては近・現代の天守建設を参照のこと。)
大規模な天守に比べて門や櫓は火災や戦災を免れて残存することが多く、ほとんどが重要文化財に指定されている。
連郭式平山城(伊予国松山城)江戸時代の軍学者による地勢に基づく城の分類には、次の3つがある。これらの区別は明確ではない。
堀や土塁・石垣で囲まれた区画を曲輪(くるわ)といい、城はこの曲輪をいくつも連ねることで成り立っていた。曲輪は郭とも書く(輪郭を意識したときに「郭」、内部の平地を意識したときに「曲輪」と使い分けることもある)。江戸時代には丸ともいわれた。防御の中心となる曲輪は本丸(=本曲輪・主郭)であり、他に二の丸・三の丸が設けられることが多かった。城によっては、櫓曲輪・水手曲輪・天守曲輪・西の丸(大名の隠居所)などが設けられることもあった。
馬出が大規模化したものを馬出曲輪、出丸などという。ある城に隣接している独立性の高い曲輪は出郭、出丸といわれる。大坂の役の際に大坂城に築かれた真田丸なども出丸であり真田出丸とも呼ばれた。真田丸は武田流城郭に多く見られる丸馬出の大規模なものであった。
首里城沖縄県や奄美諸島の旧琉球王国領域では、城(しろ)にあたるものとしてグスクが挙げられる。起源については聖域説や集落説など様々な説がある。内部には御嶽とよばれる聖域があるものも多い。知念森城(ちねんもりぐすく)は沖縄の歌集『おもろさうし』に神が初めに現れた城として登場する。建物や遺跡の復元整備が進められている首里城(しゅりぐすく、しゅりじょう)は、琉球諸島の城郭の内、現存するものでは最大規模の遺構であり、中城(なかぐすく)や今帰仁城(なきじんぐすく)とともに世界文化遺産に登録されている[5]。
チャシの山ア岬(山ア山林)北海道では城(しろ)にあたるものとして砦(チャシ)が挙げられる。これはアイヌが築いたもので、北海道の各地に存在する。基本的に城砦として使用され、アイヌ間の抗争や対和人、対ウィルタにも利用された。儀式等に用いられることもあり、機能は一概には言えない。