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永井 荷風(ながい かふう、男性、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家である。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。本名は永井壯吉(−そうきち)。号は断腸亭主人、金阜山人。 高速バス 目次 [非表示] 1 年譜 2 荷風の住まい 3 主要作品 4 結婚・女性 5 晩年 6 その他 7 家族・親族 8 系譜 9 主要作品 9.1 映画 9.2 流行歌 10 参考文献 11 関連 12 脚注 13 外部リンク 夜行バス [編集] 年譜 1879年 - 東京市小石川区金富町に愛知県士族[1]で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎、つねの長男として生まれた。 1883年2月 - 弟貞二郎出生 しばらく荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ祖母に育てられる。 高速バス 1884年 - 鷲津家から東京女子師範学校附属幼稚園に通う。 1886年 - 小石川の実家に戻り小石川小日向の黒田小学校初等科に入学。 1887年11月 - 弟威三郎出生 1889年4月 - 黒田小学校尋常科第4学年を卒業。7月竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。 夜行バス 1891年9月 - 神田一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学校第二学年に編入学。 1897年3月 - 中学校第5学年を卒業。 7月第一高等学校を受験するが不合格。9月から11月まで両親、弟たちと一緒に上海にで生活するが、帰国して神田一ツ橋の高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学する。 ダイビング 1898年9月 - 『簾の月』という作品を携え広津柳浪に入門。 1899年1月 - 落語家6代目朝寝坊むらくの弟子となり三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。しかし父の反対で落語家修行を断念する。12月外国語学校を第2学年のまま除籍となる。 北海道旅行 1900年 - 歌舞伎劇作者福地桜痴の門下となった。 1901年4月 - 日出国新聞に転じた桜痴とともに入社、雑誌記者となる。9月 - 同社を解雇。フランス語の初歩を学ぶ。年末ゾラの作を読み感動する。 1902年9月 - 『地獄の花』を刊行、ゾライズムの作風を深めた。 1902年9月 - 父の勧めで渡米 沖縄旅行 1905年6月 - ニューヨークに出翌月からワシントンの日本公使館で働く。12月 - 横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。 1907年 - 正金銀行リヨン支店に転勤。 1908年6月 - 銀行をやめる2ヶ月ほどパリに遊ぶ。7月 - 神戸に到着 8月 - 『あめりか物語』を発表。 沖縄旅行 1908年3月 - 『ふらんす物語』刊行直前に発禁となる。 1910年2月 - 慶應義塾大学文学科刷新に際し教授に就任。5月 - 「三田文学」を創刊主宰した 1911年11月 - 『谷崎潤一郎氏の作品』を「三田文学」に発表。 1912年9月 - 材木商斎藤政吉次女ヨネと結婚。 北海道旅行 1916年2月 - 慶應義塾をやめ「三田文学」から手をひくこととする。 1917年9月 - 日記の執筆を再開(『断腸諦亭日乗』の始まり) 1944年3月 - 大島一雄(杵屋五叟)の次男永光を養子として入籍。 1945年3月 - 東京大空襲で偏奇館消失 6月 - 明石を経て岡山へと疎開。8月 - 岡山県勝山町へ疎開中の谷崎潤一郎を訪問ののち、岡山市郊外の避難先に帰り、そこで終戦を知る。 沖縄 レンタカー 1952年11月 - 文化勲章受章。 1954年1月 - 日本芸術院会員に選ばれる。 1959年 - 79歳で没。死因は胃潰瘍。 東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に眠る。ほかに、故人の遺志があった南千住の浄閑寺に、知友有志が建立した詩碑と筆塚がある。 沖縄旅行 レンタカー [編集] 荷風の住まい 1879年12月 - 東京府東京市小石川区金富町(現・文京区春日二丁目)に生まれる (生家の思い出をもとに小説『狐』を書く) 1890年 - 父が文部大臣芳川顕正の秘書官となり麹町区(現・千代田区)永田町の官舎に移る 札幌 ビジネスホテル 1891年 - 一家は小石川の本邸に帰る 1893年11月 - 父、金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転 1894年10月 - 麹町区一番町の借家に移転 1902年 - 家族とともに東京市牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)に転居 1903年-1908年 アメリカ、フランス滞在 石垣 ホテル 1918年12月 - 東京市京橋区築地(現・中央区築地)に転居(断腸亭) 1920年 東京市麻布区市兵衛町(現・東京都港区六本木)に転居(偏奇館) 偏奇館(ペンキ塗りの木造洋館であったことにちなむ名称)は、空襲で焼失した。跡地は六本木一丁目の再開発(泉ガーデンタワー)により地形さえ留めていない。 1945年3月 - 東京大空襲により偏奇館消失 6月 - 岡山県に疎開 1946年1月 - 千葉県市川市菅野の杵屋五叟の転居先に寄寓。 1947年1月 - 千葉県市川市菅野の小西茂也方に寄寓 1948年12月 - 市川市菅野に売家を求めて転居。 1957年3月 - 市川市八幡町に転居。 石垣島 宿泊 [編集] 主要作品 『地獄の花』1902年刊 『明治の文学・永井荷風』筑摩書房所収 夢の女 1903年 集英社文庫 『あめりか物語』1908年刊 岩波文庫 『ふらんす物語』1909年(発売禁止)岩波文庫 狐 1909年 『冷笑』1910年刊 『すみた川』1911年刊 「すみだ川・新橋夜話」岩波文庫 新橋夜話 1912年  『珊瑚集』(訳詩集)1913年刊 岩波文庫 『日和下駄』(随筆)1915年刊 『腕くらべ』1918年刊 岩波文庫 『おかめ笹』1920年刊 岩波文庫 江戸藝術論 1920年 岩波文庫 雨?々(短編)1921年 岩波文庫  下谷叢話 1926年 岩波文庫 『つゆのあとさき』1931年刊 岩波文庫 ひかげの花 1934年 岩波文庫「雨?々・雪解」所収 『?東綺譚』1937年刊 岩波、新潮文庫 踊子 1946年 勲章 1946年 浮沈 1946年 新潮文庫「浮沈・来訪者」 問はずがたり 1946年 来訪者 1946年 葛飾土産 1950年 渡り鳥いつ帰る 1950年(映画化) 男ごころ 1956年(絶筆) 『断腸亭日乗』(一部は1947年刊『荷風日歴』)摘録されて岩波文庫 荷風は大正中期から死の前日まで42年間に渡って日記を書き継ぎ、大切に保存していた。戦前戦後の社会世相・風俗の変遷を活写しており貴重であるが、公表を意図して書かれている点に注意すべきである。 ぬれずろ草紙(春本)『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』とんぼの本・新潮社に抄録 高速バス 格安 [編集] 結婚・女性 1912年 斎藤ヨネと結婚。兼ねて馴染みの新橋巴屋の芸者八重次に入れ込み、家庭を顧みず。 高速バス 大阪 1913年 父の死後まもなく、ヨネと離婚。 1914年 八重次と結婚[2]、弟威三郎と絶縁[3]、。 八重次は本名・内田八重(1880-1966)。後の日舞藤蔭流初代家元藤蔭静枝。 1915年 八重次と離婚。 女性観 高速バス 京都 生涯の間に性交渉を持った女性の思い出を1936年1月30日の日記に書いている。子を儲けたくないと思い、必ず避妊具を使用していたという。随筆『西瓜』に「子供が成長して後其身を過ち、盗賊となれば世に害を貽(のこ)す。 高速バス 神戸 子供が将来何者になるかは未知の事に属する。之を憂慮すれば子供をつくらぬに若(し)くはない」と記している[4]。 また、荷風は「僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前で酔払はない事、処女を犯さない事、素人の女に関係しない事。此の三箇条を規則にしてゐる…」と述べている[5]。 高速バス 東京 『?東綺譚』は文脈を表層的に捉えると女性差別小説と誤解されることが多い。但し荷風の江戸時代にする憧憬、男女間あるいは人間同士の機敏を描いた小説であることが理解できる。そうして、同時に、女の切実な寂しさと、男の行きずりの恋愛による、不安定さが描き出された作品だといわれている。 高速バス 関西 太宰治は「女生徒」という作品の中で、主人公の女子高生と思われる女性に、「?東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。私は、好きだ。」と言わせる場面がある。 夜行バス 格安 [編集] 晩年 戦後は市川市に住んでいたが親戚と同居していたことで執筆活動が思うに任せなかったことから、友人の相田凌霜の別宅(船橋市海神)を書斎代わりとして使用した。戦後の作品は全て海神で執筆された。 夜行バス 大阪 一時期旧知のフランス文学者・小西茂也の家に間借りしていた。小西はこの時期荷風のわがままや奇行に悩まされることになったが、あぐらもかかず座布団もなしに正座しつづけ、暑くても肌を脱がない荷風の礼儀正しさには「さすがに士族の子弟である」と感心している。 夜行バス 京都 晩年のストリップ通いも有名で、浅草のストリップ劇場の楽屋にも出入りし、踊り子たちに囲まれた写真も残っている。 夜行バス 神戸 晩年の荷風は外食が多く、特定の店にこだわっていた。特に浅草のレストラン「アリゾナ」にはよく通い、窓際の席でビールとビーフシチューを注文するのがお決まりで、トマトケチャップがお気に入りであった。 夜行バス 東京 席がふさがっていると「今日は席がありません」と言ってさっさと帰ってしまうので、店の者が新聞紙を置いて席を取っていた。また、自宅から程近い京成八幡駅前の料理屋「大黒屋」(正しくは大黒家)には死の前日まで通い、熱燗一本にカツ丼を必ず注文していた。 夜行バス 関西 最期は侘び住まいののちの孤独死であった。腹をおさえたまま絶命している写真が存在する。多額の遺産(2005年現在の貨幣価値で3億円以上)を残していたことでも話題を呼んだ。